「私には素晴らしい先生がおられて、その方が私を育ててくれたんです。その先生とは徳田義三といわれる方です。名前を表に出すことを嫌われ、無形文化財保持者や“現代の名工”などの肩書きとは無縁の方でした。しかし、今思うと北大路魯山人ととてもよく似た方でしたね。義三は魯山人が嫌いで『自分と同じにしないでくれ』と言っておりましたが、作品に対する頑固なまでのこだわりやモノ創りのためなら廻りが見えなくなり、周囲の人間に少なからず迷惑を掛けてこられた天才肌の方でした」
徳田義三氏は、伝統を頑なに守り続けることで作家が個性を発揮できず、時代のニーズとのズレを生みつつあった西陣織の世界に独自の作風で一石を投じ、西陣のメーカーがこぞって「図案や組織図を描いて欲しい」と頭を下げて来たような人。自分の満足する帯を作れないメーカーの注文は、いくら金を積まれても断ったという伝説の人物です。
こんなエピソードがありますよ、と6代目は続けます。
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「良い作品のアイデアがまとまると、夜中でも糸を買ってこいと言うんです。店が閉まっているなら糸屋を起こせばいいじゃないかと(笑)。作品の良さは理解できても、義三そのものを理解できた人は、そうはいませんでしたね」
と当時を懐かしみます。6代目が徳田氏のもとに住み込みで修行に入ったのは十代の頃。現在の屋号『捨松』も6代目を見込んだ徳田氏が命名し、捨松の図柄や組織もそのままのかたちで託されたそうです。捨松の帯は一目でそれとわかるものであり、連綿と続く西陣織の歴史の中で明らかに一時代を記す個性を持っています。
木村四郎さんは百四十余年の“のれん”を誇る西陣織の6代目織元であり、2代目『捨松』でもあるのです。
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